The Great Wall ~万里の長城~

新世界七不思議には、イタリアの「コロッセオ」、メキシコの「チチェン・イッツァのピラミッド」、ペルーの「マチュ・ピチュ」、ブラジルのイエス・キリスト像、ヨルダンの「ペトラ」、インドの「タージ・マハル」そして中国の「万里の長城」です。スイスに本拠を置おいている「新世界七不思議財団」が2007年に選出しました。ユネスコの文化遺産で、現存している人工壁の延長は6,259.6kmです。始皇帝の秦の時代に始皇帝が長城を構築したと言われていますが、現存している「万里の長城」のほとんど大部分は、「宋」のあと「元」の次の時代の「明」の時代です。

万里の長城の歴史

中国の戦後時代は春秋時代といわれていて、その時代には数多くの国家が存在していました。戦国時代そのままに、弱小国は大国に次から次への併呑されていく時代です。そしてやがて大きく7つの国になりました。秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓の七国ですが、この七国のことを「戦国の七雄」といいます。このころから、すでに万里の長城は、それぞれ外的に備えるために、すべての国が建設していました。

春秋時代に「楚」の君主だけが王を自称していました。そしてそれ以外の国は天子であった周王室の権威を尊重していましたが、戦国時代に入ると他国の君主も次々と自らを「王」を自称するようになりました。秦と斉の君主に至っては、一時期ですが西帝・東帝を名乗っていた事もありました。長城の建設は、北方の敵に備えることが目的だけではなく、斉や韓、魏や楚のように北方遊牧民族と接していない国も、特に警戒すべき国境に長城を作っていました。

秦の時代

そのなかでも、北の異民族に備えるために北の国境に長城の建設を行っていたのは燕、趙、秦の3ヶ国でした。始皇帝は中華を中国で初めて統一した後に、中国の中にある長城を取り壊します。そして北に作られた3ヶ国の長城を繋げて「大長城」としました。この時の長城は粘土質の土を固めて築いた建造物だったため、馬や人が乗り越えられなければ良いという感じで建てられていたため、場所にもよりますが多くの区間はそれほど高くない城壁(幅3~5m、高さ約2m)だったといいます。そして現在の万里の長城よりも、かなり北に設置されていて、その東端は朝鮮半島へにまで及んでいました。

漢~唐の時代

秦の時代が幕を閉じても、長城建設は前漢に引き継がれていきます。そして武帝の時代にさらに延長されることになりました。匈奴を追って領土を拡張したことで、長城は新しく得た河西回廊を守る形で西に延長されていき、玉門関(ぎょくかんもん:現在甘粛省敦煌市にあり、シルクロードの重要な堅固な関所)まで拡張されました。

後漢の中頃には長城は放棄されていたため、三国時代には長城防衛は行われていませんでした。その後の五胡十六国時代に異民族の力が強くなり、華北を統一した鮮卑族(せんぴ)の北魏はさらに北からの遊牧民族の来襲を警戒すると、漢代長城より南寄りの現在の線に新しく長城を築いていきました。これは東西分裂後の北斉にも引き継がれることになり、北斉を倒した隋もこの長城を維持しました。唐王朝は長城防衛そのものを放棄したため、その後の五代十国や宋王朝もおなじく唐時代の方針を引き継いだため、長城はしばらく中国史から姿を消すことになりました。

金王朝と明の時代

長城が復活を遂げたのは、女真の建国した金の時代です。金はさらに北方からの襲撃を恐れたため、大興安嶺の線に沿って界壕と呼ばれる長大な空堀を掘りました。界壕の内側には、掘った土を盛り上げて城を築きあげていったため、ここで実質的に長城防衛が復活しました。ところが、せっかく作った界壕はモンゴル人の建国したモンゴル帝国によって難なく突破されてしまい、長城を越えて侵入したモンゴルによって金王朝は滅亡することになりました。

モンゴル人の元は長城を築かなかったため、南方から興った中国人の王朝の明が元王朝を北方の草原へ駆逐しても、首都を南の南京に置いた朱元璋は長城を復活しませんでした。長城防衛を復活させたのは明の第3代皇帝だった永楽帝のときです。第3代皇帝永楽帝は、南京から首都を遊牧民族の拠点に近い北京へと移したため、元の再来に備えて長城を強化する必要に迫られたため、北方国境全域で長城を建設することで、長城はようやく現在の形へと築かれることになりました。

長城が現存しているのは全体の2割以下

長城は「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われていますが、実際にはは草原の中に建っています。これは元の時代に北方の草原と、南方の農耕を一体とした社会・経済が成立していたため、明の時代でも国内で同じように北方の草原と、南方の農耕をいったいにした社会と経済を成立を実現するために、北方への勢力拡大を行なっていたからです。そのため、北方民族も南方の農耕民族の物産を必要としていたため、長城沿いに交易所がいくつも設けられました。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もありました。その交易を有利にするための「威嚇する手段」として、明の力が弱い時期に、北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していました。

明末に満洲族(女真)が勃興して後金を建国すると、明との間で長城の東端を巡り死闘が繰り返された。後金は明に対して有利に戦いを進めるも、名将袁崇煥に阻まれ長城の東端の山海関を抜くことができなかった。袁崇煥は後金の謀略にかかった明の崇禎帝に誅殺された。その後に明は李自成に滅ぼされ、後金から改名していた清は、明の遺臣の呉三桂の手引きにより山海関を越え、清の中国支配が始まった。

現在、「万里の長城」は中華人民共和国政府によって重要な歴史的文化財として保護されていて、世界遺産にも登録されています。「万里の長城」は世界有数の観光名所としても世界的にも名高い観光名所になっていますが、地元住民が家の材料にしたり、観光客へ販売するな目的で長城の煉瓦を持ち去っているため、「万里の長城」の破壊が進んでいます。また、長城がダム工事により一部沈んだり、道路建設により分断もされているます。その中でも特に長城周辺の甘粛省や陝西省は、中華人民共和国でもっとも貧しい地域の1つになっているため、当局は長城の保護対策に頭を悩ませている。

2006年4月に行われた中華人民共和国の学術団体「中国長城学会」の調査によると、「万里の長城」がきちんと有効保存されている地域は、「万里の長城」全体の約2割以下になっていて、一部現存している地域も3割になっていて、残りの5割以上は姿を消しているという報告がなされました。

一番最新の発表では、2012年6月5日にされた発表では、秦代、漢代など明時代だけではなく、かなりさかのぼって秦・漢時代を含んで調査した所、万里の長城の総延長は従来の2倍以上となる21,196.18kmだったと中華人民共和国国家文物局は発表しています。

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