中国統一を成し遂げた最初の皇帝

始皇帝は紀元前221年に中国史上で初となる中国統一を成し遂げました。そして中国で最初の皇帝となり、49歳で死亡するまで中国の皇帝として君臨しました。歴史上とても重要な人物のひとりでもあり、約2000年に及ぶ中国皇帝の先駆者でもあります。そして始皇帝が行なった巨大なプロジェクトに「万里の長城」があります。宇宙から肉眼で見ることができる唯一の建造物「万里の長城」は現存している大部分は明代に作られたものですが、始皇帝が行なったものは等身大の兵馬俑(へいばよう)を備えた秦始皇帝陵というその規模は、2万㎡という大きな陵墓といったとてつもなく巨大なもので、皇帝として君臨した始皇帝の権力の強さを表しているものです。

始皇帝

秦は戦国時代には七雄のひとつに数えられるまでになっていました。そして13歳で即位しています。紀元前241年に趙、楚、魏、韓、燕の五カ国からなる連合軍を撃退して、さらに国力を増強していき韓・魏・趙を滅ぼし、紀元前223年に秦にとって最大の敵でもある楚を滅亡させ、燕を滅ぼし、紀元前221年に斉を滅ぼして中国統一を果たします。その時おそらく25歳から26歳と思われます。

中国統一を成し遂げてから「政」の名前を改め、「始皇帝」と名乗りました。中国を統一してから政治改革や経済活動などを実行していきました。今までは配下の一族に領地を与えてそれが世襲されていく封建制から、中央が選任して派遣するといった官僚が治める中央集権「軍県制」へ全国的な転換を行ないました。「秦」という国家単位で貨幣や計量単位を統一、文字の統一、そして交通規制などの制定も行ないました。そして焚書坑儒(ふんしょこうじょ)いう思想弾圧を行い、法による統治を敷いたことでも知られています。

不老不死を求めた始皇帝

万里の長城の整備、そして巨大な大宮殿「阿房宮」(あぼうきゅう)を建設させました。これらの巨大な工事は、主に農民を使役して行なわれ過酷な労働を強いています。また焚書坑儒といった儒教といった思想の弾圧、極度なまでの法治主義をおこなうことで、国内では秦に対して不満が高まり結果的に反乱の芽を育てています。

権力を握れば、いつまでもその場に座っていたい権力者が多いのは今も昔も変わらず、始皇帝もやはり同じく権力の座に永遠と座りたいと願ったことが伺えます。始皇帝の場合は、あの巨大な国土を持つ中国で、巨大な権力を握ることに成功した始皇帝は、「不老不死」を求めて徐福に命じて仙人を連れてくるように命じた記録が「史記」に遺されています。

今回の展示物「跪射俑」(きしゃよう)の兵馬俑も、自身が入るための墓を生前から造営していて、生きているときと同じような生活を死後の世界も営む世界をつくりあげることに併せて、「不老不死」を手に入れようと部下達に無理難題を押し付けました。そして部下たちに「不老不死」の薬を探し出すよう命じるだけではなく、不老不死の薬を作ろうとする試み練丹術が始まりました。

不老不死の薬に水銀

「不老不死」という、無謀な命令を受けた彼らが作りだしたのは「辰砂」(しんしゃ)という「霊薬」または「仙薬」の原料は、水銀などや砒素が原料となっていた薬でした。始皇帝の時代はもちろんのこと、古代から練丹術などでは水銀が「永遠の命」や「若返り」に効果があると信じられていました。「不老不死」を求めた始皇帝は、水銀入りの「仙薬」を飲んだり、水銀入りの食べ物をとって結局、始皇帝は水銀による猛毒で亡くなりました。

残っている話によると、始皇帝は巡遊中に亡くなっていますが、症状は旅の途中でかなり深刻な状態になりました。旅先で亡くなったため、遺体となった始皇帝を咸陽まで運ぶときに、かなり熱い砂漠を移動するうちに当然ながら始皇帝の死体は、すぐに異臭を放ち始めましたが始皇帝が亡くなったことを隠すために、始皇帝の遺体を載せた場所の前後には腐った魚を運搬したとか、または側近が始皇帝の遺体と一緒に腐った魚を入れたといった話があります。

始皇帝のお墓「始皇帝陵」が発掘されるまでは、あくまでも「伝説で始皇帝の陵があるようだ」といったものでしたが、1974年3月29日に、井戸掘りの農民たちが偶然にも兵馬俑を発見して、「始皇帝陵」は世界的に知られるようになりました。そして考古学者たちが墓の位置を特定して、探針を使った調査を行った結果そこには自然界にあるよりも濃度が約100倍高い水銀が発見されました。始皇帝陵の土地の水銀濃度は高く、まだ始皇帝陵の本体は未発掘になっているため、全貌が明らかにされていませんが、はるかに高い水銀の濃度から内部にもかなりの水銀があるのでは?!と言われています。

始皇帝陵の本体は、巨大な地下宮殿だといわれていてその広さは350メートル四方で地下30メートルにあるといわれています。木造建築がそのままの状態で埋められていると考えられているため、もし腐っていなければ世紀の大発見になる埋蔵物の数々が出てくるであろうと思われますが、埋葬されている宝物や墓質など盗掘から防ぐための様々な仕掛け(罠)がほどこされているため、水銀の有毒性なども合わせて考えるとこれから先の発掘の予定はまだ読めないというのが現状です。日本のキトラ古墳などにならないように、発掘してからの保存も含めて考えると、技術的にもかなりむずかしいことになるでしょう。

秦の時代の文化

中国が始皇帝によって統一される前に、統一される前の秦に関する資料として「石鼓文」(せっこぶん)・「詛楚文」(そそぶん)と呼ばれるものがあります。

石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたもので、現在は北京の故宮博物院に保存されています。これらのものが発見されたのは陝西省鳳翔県と言われていて、成立時期は中国春秋時代の秦の第9代穆公以前の時代だと考えられています。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などが韻文にして書かれています。

「詛楚文」は秦の強敵だった楚を呪詛する内容になっていて、「詛楚文」の方は現在は失われていますが、内容は写されて現在に伝わっています。「石鼓文」「詛楚文」の二つに使われている書体は秦が独自に作ったもので、この書体を「石鼓文」と呼んでいます。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。

思想的には法家が当然強くなっていますが、老荘思想の道家も強かったようです。この法家と道家の両者は思想的に繋がる部分があると指摘されています。『史記』で司馬遷が老子と韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることも、この考えからだと思われます。それから後に、法家と道家を混交したような「黄老の道」と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっています。

そして世界遺産に登録されている「始皇帝陵」は、始皇帝がまだ13歳の時から建築が開始されたもので、発掘されたのはまさに20世紀後半と近年になっていますが、この発掘で今まで不明瞭だった秦の時代の文化が伺えるようになっています。

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