文化が発達した唐の時代の都市

唐の時代は、今に繋がる「文化」が形作られて見事に昇華した時代でもあります。ちなみに囲碁は隋のときから19路盤が使われていて、すでに現在に似た打ち方になっています。唐の時代は囲碁は特に盛んで、文人たちにも愛されました。そして713年頃には唐の第6代皇帝で、楊貴妃を寵愛した人物としてしられている玄宗も碁を好んでいたため、日本人で奈良時代の僧の弁正と碁を打ったという話や、棋譜も残っています。囲碁はいろんなところで広く遊ばれて、基盤や碁石にはとても貴重な素材が使われることもありました。

唐の時代

都が長安に置かれた「唐」は、618年に李淵が隋を滅ぼして建国したのが始まりです。7世紀の唐が一番繁栄した時期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国となっており、日本も遣唐使を送り活発で積極的な交流が行われていました。唐の歴史は300年に渡っているため大変長くなっています。また唐の時代には多くの社会変動もありました。唐の時代に発展した大都市は、唐の都の長安の外には、北部の洛陽、南部の揚州、成都、広州などが存在しました。

唐の都:長安

唐の時代のうち、そのほとんどの期間、唐の都であり続けたのが長安です。その頃の人口は、約100万人とう説が従来からある説になっていて、現在は諸説ありますが、その説もほとんど100万人の前後の人口になっていることが多くなっています。そのため、その当時の世界最大の人口を持つ都市だったという説が有力になっています。

帝の御座所が宮城になりますが、宮城が東に存在していたため、長安の東には、貴族や官僚たちが住んでいて、長安の西側に庶民が住んでいました。東西に存在した二つの市の東市と西市を中心にして、商業地区が生み出されました。東市の周りの坊には、北里と呼ばれた多数の妓楼のある歓楽街や旅館街、飛銭を発行をする進奏院、外国人の少女たち胡姫が給仕をする酒場が存在していました。

庶民が多数居住した西市の周辺には、西域から来たソグド商人が経営する金融業者、宝石商が店を構えていました。また、多数の地方からやってきたいわば流れでやってきた人たちが西市付近に住んでいて、やがてスラム街となって、「客戸坊」と呼ばれていました。

唐の時代も進むにつれて、皇族、高官、宦官が長安の街、東北部の宮城の近くを占めていきました。長安の市には、数百の行があり、邸店が立ち並んでいました。東市では高級品を主に扱っていましたが、商人は西市に集っていたため、西市の方がにぎやかでした。そして西市では街中にも飲食店が店を開いていました。唐がもっともは繁栄したころは、さらなる運河の改良によって、船で各地の食糧や特産品が運ばれるようになっています。

胡人(こじん)は、突厥(とっけつ:トルコ系遊牧民族)やソグド(イラン系のオアシス灌漑農耕民族)、回鶻人(ウィグル系)だけではなく、アラビアやペルシャそしてインド人なども多く在住していました。そのため長安は、その当時の世界でもっとも繁栄した国際都市へと発展していきました。また、長安は関中という盆地にあっため、要害に囲まれており、監牧地が近くに存在して軍馬が容易に供給されなかったことから、防衛上の機能はとても高くなっていますが、輸送上の問題がありました。

輸送上の問題から、長安ではしばしば食糧難に陥ったため、盛唐まで皇帝は洛陽に移動することが多くなっていました。また、シルクロードをつたい、西域の国家経営を行ったため西域とつながるために適した地勢でもありました。

揚州

揚州は、海岸と長江そして大運河の交差点にあたる都市ということもあって、大運河がまちを通過する水運の要となる場所でもありました。また、造船業も発達していくとともに、全国の商品の集散地となったため、江南経済の発展とともに、揚州としての都市の重要性は増していきました。揚州は海外への貿易港としても存在していたため、貿易都市として発展していき、住む人口も50~60万人にまでと大幅に増加していたため、国内外の商人が集まる都市へとなりました。揚州に集まる外国船はどのような船があったかというと、ペルシャ、アラビア、朝鮮、そして日本の船も存在しており、多数のアラビア人やペルシャ人が在住していました。唐が一番栄えた以後は、坊壁もとりはらわれ、通りに面して店舗を建てて、さらには夜市も開かれていました。また、揚州は江南の海塩の集散地ということもあって、塩商人が集まって繁栄しました。揚州で取引された商品は、米、塩、金銀器、絹、木材、茶などが取引されて、揚州で積み替えられてそして品物は華北へと運ばれました。揚州では金や銀の両替も行われていました。揚州の繁栄は、宋代の初期まで続きました。

成都

前述の揚州と、成都は唐の時代には、特に発展した商業都市になっていて『楊一益二』と言われており、文人たちの楽園として知られていました。

蜀地方が温暖な地方ということもあり、さらに水運が開けたことまり、加えて隋時代末にあった戦乱の影響も全くなかったため、成都はとても発展しました。成都の特産品には、養蚕、絹と紙が存在しています。絹のなかでも特に上等なものは蜀錦として知られていました。

また、成都では毎年春に『蚕市』と呼ばれる市が城内各地に立てられて、その時期には人々が群がったと伝えられています。成都の紙は品目も多いだけではなく、紙の質もたいへん優良だったことから、名産地として知られています。紙の中でも特に、『薛濤箋』という唐代の妓女の名を冠した紙はその中でもとくに有名ですた。成都も人口が約50万人いたとされています。揚州と成都は特に発展した商業都市であり、

洛陽

洛陽は、華北平原の西に存在していたため、江南から長安から続く経路にあたります。そして黄河という大運河に乗り換える中継地点でもありました。洛陽も、おそらく人口100万人を超えていたのでは。ともいわえれる時期もあります。

洛陽には「北市」「南市」「西市」の3つの市場が存在していて、どの市場もそれぞれ運河沿いに立地していました。ただし、「西市」の存続期間は、わずか2~30年ぐらいのことでした。「北市」には、各地の船が一万艘ほど停泊しており、船が水路を埋め尽くして、ソグド商人たちが逗留して、金融業や香料、珠玉、象牙といった外国商品を扱っていたため、大変なにぎわいを見せていました。「北市」の周囲には、貧困なながれものたちが集まる「糠市」が存在していました。

「南市」は二つの坊にまたがっていて、120種類の行があり、店舗や邸店が立ち並んでいました。そこにはゾロアスター教の寺も3つ存在していました。華北や江南から、長安へ送られた来る穀物はいったん、洛陽で集められて洛陽からすべて運ばれていきました。洛陽は長安からの東方へ結ぶための都市になっていて、長安と相互補完の関係にありました。一時的ではありますが、女帝の武則天が執政を行う時代に都が移ったこともあります。

広州

広州は、海上貿易の中心地になったのが玄宗の時代です。東南貿易を統括する市船司が設けられました。海上貿易の中心として大変栄えたと氏になります。唐の時代の初期の頃には、とても疫病が多い地帯ではありましたが、次第に改善されていくことになりました。東南アジア諸国だけではなく、インド、スリランカ、アラビア、ペルシャといった西アジア国家の外国商船が訪れて、唐と貿易を行いました。

広州には外国人居留区として蕃坊という居住区が設けられていて、居住している外国人の指導者が自治を任される地区でもありました。外国人も市制に従って商売を行っていましたが、広州には夜市も存在していました。

広州の貿易は、とても大きな富をもたらしたこともあり、市船司の長官に利得を目的とした宦官が頻繁に就任するようになり、また広州の長官も財を貪るものが多く出ていました。

治安の面では、684年には外国人によって長官が殺されたり、758年には外国船に襲撃されたりとした巨悪な事件が起きています。唐の時代の末期頃、黄巣の乱で広州が陥落したため、唐の時代に栄えたかつての繁栄を取り戻すことはありませんでした。ちなみにこの時に、虐殺された外国人の死者は12万人以上にものぼるという記録もあります。

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